ダイエー京橋店、惜しまれつつ閉店。
本日2019年9月30日、あの大阪の旗艦店であり京橋のランドマークでもあるダイエー京橋店が閉店。今回はそれについてレポート。
古き良きダイエーの残る店
京橋店は1971年11月26日オープン。 1971年といえば大阪万博の次の年、アポロが月に着陸した年であります。大北京の前のダイエー矢印。
エスカレータ付近のパネル。
かっこよくて素晴らしい。
時代の止まった売場。
圧倒される三連ダイエー矢印。
ピクトグラム最高。
ダイエーのサイン。
見つけた懐かしのフロア案内。
駐車場でAとBに分かれていたのはここぐらい。
最後まで気付かれずに残りました。
閉店セレモニー
今回、事前に2階のセンタープラザで閉店セレモニーをやると告知があった。ゲストはhuman noteの皆さんと木山裕策氏。
19:00ちょうど、予定通りにスタート。 まずはhuman noteの皆様のミニライブ。
2曲歌われましたが、とても素晴らしく、どことなくお店の建物に向かって歌っているようにも聞こえた。
human noteの皆様は、全員だと700人を超えるためか、お店のある都島区を中心に活動されているグループの方々が参列。
青春時代を過ごし、結婚してからは子どもと来るようになり、思い出はたくさんあるからさみしいと語った。
human noteをご存じない方のために少し。
ダイエーと関わりのあるアーティスト集団で、「世界一☆ベジタ」や「Wonderful Christmas」などを歌っている方々。
私はhuman noteが来るということを知った時は、「わかってらっしゃる」と思った。
続いて木山裕策氏。
この方は生まれも育ちも京橋。都島だと語った。
1968年にお生まれになられたとのことで、ほぼダイエー京橋店と歳が近いとも語った。
子供の頃から知っていて、ディッパーダンのクレープも好きだったとも語る。
上京された際にはディッパーダンがあまり見当たらないと驚かれたそう。
この方、実は二足のわらじを履かれていて、サラリーマンしながら歌手活動をされている方。
ガンを乗り越え、生きた証を、自らの声を残すべく歌い始めたのが始まりだそうで。
代表曲「home」をはじめ3曲を歌われた。
ライブの前に公開リハという珍事も。
木山氏の歌声も、お店に、特に同年代であろう親世代に響いたのではないだろうか。
最後の挨拶
ライブ終了後、来賓3名が登壇。都島区商店会連盟会長、ダイエー京橋店の長崎支配人、ダイエー京橋店専門店会の会長の3名である。
まずは都島区商店会連盟会長の挨拶から。
ダイエー京橋店は1971年、大阪万博の次の年。1970年には京阪モールがオープンし、その次の年にダイエーがオープン。
当時は百貨店の全盛期からスーパーに変わりつつあり、スーパーに力があった時代と語った。
それ以来、商店街とダイエーの専門店会とともにまちづくりをしてきたと語った。
京橋は昔は非常にガラの悪い街であったが、活動の成果か、放置自転車、路上喫煙を一掃。
区民祭りのサポートや、大阪マラソンの選手向けの食品提供までしてきたという。
幕を降ろすことは痛手であり、ともにやってきた仲間が去るのはさみしい限りであるといったが、
OBPとともに「都市再生緊急整備地域」に指定されたため、建て替えとなることに。
ダイエーの時は万博の翌年だったけれど、今度の大阪万博の時に合わせて建つのではないかと予想された。
ダイエーは無くなるわけではないが、また京橋のランドマークとして戻ってきて、でかいイイやつを建ててほしいと希望を持っていらっしゃった。
が、不安もあるという。
でかいのが建つと、全部のお客様がダイエーに流れて、商店街が衰退するのではないか、と不安がっていた。
会長、申し訳ないけれど、現実になりそうなので怖いですよ。
しかし、京橋活性化にはなくてはならないお店であると語り、最後には長崎支配人と専門店会長に御礼をし、ダイエーがなくなったら商店街に来てちょうだいと締めくくった。
大阪らしいなぁ。
(お別れではなくめでたく締めたい、とも語った。)
続いて、ダイエー京橋店の長崎正司支配人より挨拶。
この時点で20時4分前であったが、20時をもって閉店ということにしたいと語った。
1971年にオープンした際、支配人は小学生であったそう。
センタープラザ横に「思い出の木」と称して葉っぱの形でツリーを作ることをしていた。
たくさんメッセージをいただきました、と語る。
あまりに数が多すぎて、「思い出のビル」になっているといった。
着任をして5年半、建ってから47年。一言では語りつくせないと。
お客様から手紙をいただき、感謝のメッセージもいただいたという。
お客様に感謝しきれないぐらい感謝しているとも語る。
あるお客様からは、「この47年、親子3代、孫まで、思い出を作ってくれた」と真剣に話された、とも語った。
ここ数日のお客様との会話は、感謝の言葉ばかりだったという。
学生時代を過ごした、ドムドムやディッパーダンのクレープを食べたというメッセージ、支配人自ら熟読していたという。
着任してから5年半、地域のお客様や駅利用のお客様に何もできなかったと語る。
しかし、先輩方々が守ってきた店、自分がこの店を守れるのか、というのが着任当初の感想だったそう。
ダイエーに入社して、一番行きたかったお店がここ京橋店であると語った。
支配人だけでなく、同僚も含めてみんなが言っていたという。
お客様にきっちり物、サービス、コトのサービスを還元していく目標のお店がここだったと語った。
5年半前に着任し、目標達成したと語る支配人。
ただ、一時閉店に際してはご不便をおかけしてしまうことは恐縮であると語る。
ここからは本意ではないのかもと思いつつ聞いていたが、 (自主規制)グループはドミナントである。
4km先に野田阪神、3km先に鶴見緑地、南側には大阪ドームシティ、 (自主規制)モールがたくさんある。 (自主規制)バリュもあるという。 近くには(自主規制)光洋もやっている。
その期間はそちらを利用していただいて、戻ってきた際にはウチに来てと語った。 その期間はきっちり(自主規制)共々全員で還元していくと宣言し、47年間ご愛顧いただいたお客様に対するメッセージとする。
「47年間、ありがとうございました」と締めくくった。
最後のお別れ
最後は2階の連絡通路で人だかりができていた。そこにつながる通路には赤じゅうたん。
スタッフたちが列を作り花道に。
出口のそばには長崎支配人。
ある程度まとまりがついた後は、シャッター前に全員整列。
真ん中には長崎支配人、その左には商店会連盟会長、右側には専門店会長。
ここでサプライズ。
human noteの皆様による「蛍の光」で締めくくられるサプライズ。
泣けました。
そして、最後の長崎支配人の寂しそうな顔。
つらそうなのが顔に出てました。
最後に
私自身、このお店は子供の頃から来ていた。物心ついた頃からダイエーに触れており、1番のおでかけはこの京橋店。
親に連れられ、買い物に。
最近も家族を連れてやってきた。
思えば今日までの3日間、ダイエーに通っておりました。
無くなるとは思っていなかっただけに、ショックは大きいです。
セレモニー中に本気で泣いてました。
それぐらい、私にとって思い入れの強いお店の一つです。
ただひとつ、心残りなのは、大北京で中華料理が食べられなかったこと。
閉店間近の激混みで入ることができなかったのです。
悔しい限りであります。
我々にできることは、ダイエー京橋店の存在をこの先もずっとずっと伝えてゆくことです。
絶やしてはなりません。語り継ぐのです。
P.S. 今日は来ていたのかな、中内CEO。
きっと、センタープラザの全体が見える位置でご覧になられていたのかな。
なぜ支配人??
さて、ここまで読み進めてきて気になった方もいるだろうが、セレモニーでは「店長」といっていたのに私は「支配人」と書いている。なぜだ、という前に説明しておく。
実はダイエー京橋店、昔は一番偉い人が支配人だったのである。
支配人というのは大型店の責任者を務める役職で、社内的には店長より格が上になる。
だから、支配人は部長級、店長は課長級だったという。
何を隠そう、私は「ダイエー原理主義者」と公言しているので、京橋店のトップは「支配人」で統一しているのである。